■田井民芸のはじまり

三豊市高瀬にある田井民芸さんは、明治元年(1868年)ごろ創業。
創業から146年ほどが経ちますが、今も正確な創業年数はわかっていません。
海上交通が発展した商人町の仁尾に近かったこともあり、以前は店名を「田井人形店」とし、市松人形や節句人形も作っていたそうです。
しかし時代の移り変わりとともに市松人形などの需要が減ってきたこと、
そして京都で生まれる綺麗でお洒落な人形に人気が集まり、
昭和46年に「田井民芸」と名前を変更して、張子虎と獅子頭を主に作るようになりました。
初代となるのが長江キクエさん。
2代目はキクエさんの兄弟にあたる惣四郎さんが継いで、
3代目は惣四郎さんの息子の清巳さんが継ぎました。
4代目は清巳さんの長女の方が継ぎ、
平成4年頃、田井家に嫁いできた艶子さんが5代目となりました。
現在は5代目の田井艶子さんと、ご近所に住んでおり、勤め始めて約28年の綾静子さんが働いています。
■張子虎の歴史
虎は日本に生息していない動物です(日本が大陸の一部だったころには生息していたらしく、骨が見つかっています)
日本人が虎を知るのは中国や朝鮮との交易が始まってから。
中国、朝鮮では虎は野生に生息している動物の中で最も獰猛とされ、畏怖の念を持たれると同時に、神様と崇める時代もありました。
日本では張子虎にまつわるこんなお話があります。
江戸末期に流行した感染症「コレラ」に効くようにと、大阪の薬屋が虎の頭の骨などを配合した丸薬を作りましたが、数がとても足りず、中国の医薬神である「神農(しんのう)」をまつっている少彦名(すくなひこな)神社に張子の虎を供えました。
それが功をそうしたのかコレラの流行はおさまり、以来、現在に至るまで張子の虎が少彦名神社に供えられています。
このように、香川県の伝統的工芸品に指定されている張子虎は香川県外にも産地があります。
上記の張子虎の逸話が残る大阪の「大阪張子」や、岡山の「倉敷張子」などです。
節句のお祝いに張子虎を飾る風習は全国各地にあったため、高松でも張子虎は盛んに作られていましたが、現在、香川の張子虎の伝統工芸士さんは皆、三豊市にお住まいです。
仁尾港を通じて大阪から張子虎の文化が入ってきたものが根付いたのではないかと、田井さんはお話されています。
■田井民芸の木型
張子虎の場合は、頭、胴体、足4本、しっぽのパーツそれぞれ別の木型があります。
いくつかの木を集めて作る寄せ木ではなく、一本の木を彫って作っています。
木の材質は特に問わず。40年から50年ほど保ちます。
かつては木型まで田井民芸さんで作っていましたが今はそうではなく、知り合いに頼んだりと様々。

欄間彫刻の伝統工芸士でもある朝倉彫刻店さんに頼んで作ってもらったこちらの木型が一番新しいものだそうです。
今は張子虎がサイズごとに15種類。獅子頭は5種類あります。
1種類につき1個しか木型がないため、量産には時間がかかります。
ちなみに張子虎には「幻の7号」が存在します。
ひとつ上のサイズとほとんど変わらない大きさだったため、今は使われていません。
もしお持ちの方はとても貴重ですので、なおさら大切になさってください。

のちの作業のために、紙を貼る前の木型に食用油を塗っています。
その影響で表面が黒くなっている木型が多いですが、焼いているわけではありません。
■田井民芸の張子虎の作り方
まずは虎の木型に紙を貼る作業です。
丈夫で厚い古紙と、柔らかい習字の紙の、特性の違う2種類を使います。
古紙は古い家屋や蔵の取り壊しで廃棄される古書を、専門の業者から買っています。明治半ばまでの紙は質が良いそうです。
習字の紙は田井民芸さん近くの習字教室からもらっています。ただ、習字の紙もナイロンが含まれている紙だと伸びが悪いため、選別しています。
これらの紙を5枚重ねあわせたものを、小麦粉と水で作った「でんぷんのり」で木型に貼っていきます。
貼る枚数や1枚のサイズは木型のサイズによって変わり、
最大サイズの120センチのものになると、新聞紙四つ切りサイズの紙を600枚も使います。
紙を貼ったあとは乾燥です。
冷風乾燥機の中にいれて時間を設定し、乾かします。

大きいものは乾かす時間も長くなるので、ときには外に天日干しして乾燥させます。
この乾燥機は約20年前に設備された比較的新しいもの。
乾燥機が来るまではノコクズを引いて火をつけ、火を沈めた状態の上に網を置き、コロコロと転がしながら乾かしていました。
同じ場所を火に当て続けると燃えてしまうので、目が離せないうえに長時間の作業だったそうです。
乾燥したら、木型から紙をはがします。
大きなものは体全体で抱え込むようにして持ち、ナイフで切り込みを入れてはずします。
木型に紙を貼る前に木型に食油を塗っていると、紙が取り外しやすくなります。
切り口は別の紙でくっつけます。

そのあとニカワで胴体と足を接着します。
ニカワは名前の通り、動物の皮や骨を煮て抽出した接着剤。固形にしたものがよく出回っています。強い接着力があり、昔から使用されてきました。
次は胡粉とニカワを混ぜたものを塗ります。
胡粉とは貝殻の細かく砕いた粉のことで、ニカワと混ぜることでよく紙にくっつきます。
胡粉を塗って乾かすのには、藁に刺した棒にひっかけます。
これは昔からの方法で、藁に立体的に刺せるので場所の節約になります。
色は日本画などでも使われる顔料を使います。
張子虎の場合、黄色を先に塗ります。そこが乾いたら縞模様を描いていきます。
湯煙(ゆえん)とよばれるニカワとろうそくのススで作った墨と、墨汁を使い、
いろいろな太さの筆を使い分けて細かく塗ります。
残りの部分も赤色の顔料などで塗っていきます。
そのあとヒゲをつけていきます。
張子虎のサイズによりますが、ヒゲは白く脱色した馬の毛で出来ています。
ちなみに田井民芸さんで作っている獅子頭の髪にも、馬の毛は使われています。
頭の部分におもりをつけて、うまく首を振るように調節します。
最後に首周りに布をはります。
お雛様の服にも使われるこの布は、仁尾にある陶川(すがわ)人形店さんで買い求めているそうです。

■田井民芸さんのこれから
昭和60年に香川県の伝統的工芸品指定制度が出来たと同時に、香川県伝統工芸品指定を受けた張子虎。
ですがそのころから今に至るまで、人々の生活はさらに変化しました。
時代に沿った商品をと心がけて、伝統の張子虎はそのままに、張子虎ストラップを作ったりと試行錯誤していますが、ご主人が別の仕事を続けているからこそ今も張子を作っていられるのだと艶子さんはお話されています。
香川県善通寺の出身ですが、ご主人と出会うまで張子虎の存在を知らなかった艶子さんは、22才で嫁がれてから田井民芸の仕事を少しずつ手伝いはじめます。
1から10までつきっきりで教えてくれるようなことはなく、身て覚えたものを実際に作ってみてから教えを請うやり方で学んでいったそうです。
張子虎の伝統工芸士のなかで一番若手の田井艶子さんの田井民芸にも、ほかの張子虎の伝統工芸士さんにも、後継ぎは特にいません。
今まで張子虎を学びに来た意欲のある人はいたそうですが、張子虎1つを作るにしても長い時間と手間がかかります。何か別の仕事をしながらでは、とても続けられないとのこと。とても厳しい状況です。
しかし、張子虎の伝承活動を積極的に行うことで張子虎の文化を残していけたらと、田井民芸さんでは毎年、地元小・中学校で張子虎の絵付けワークショップをしています。
地元イベントにも誘われたら予定がない限りは参加し、サン・クラッケでも何度かワークショップをしていただきました。
初めて張子の絵付けをするお客さんたちの質問に答えながらのおよそ2時間は、気力も体力も必要です。1つ作るのにも時間がかかる普段の張子づくりと家事の合間に、こうした地道な活動をしています。
これをきっかけに張子虎を初めて知った人、張子虎が香川の伝統工芸品であることを知った人はたくさんいるはずです。
次の世代に繋いでいくことが要でも、まずは広い世代に伝えていくことが必要なのではないでしょうか。
場所をあまり取らない小さめの張子虎も作られていますし、
お子さんがひっぱってしまってよく取れてしまうヒゲも、田井民芸さんで修理が可能です。
お子さんの節句のほか、新年のお祝いや、厄除けにも。
ひとつひとつ細かな表情が違う手作りの張子虎。ぜひ一度、実際にご覧になってみてください。

■参考文献
畑野栄三(平成4年、平成5年)『全国郷土玩具ガイド③、④』婦女界出版社
ハスイ